リンク

調布市の地域情報ポータルサイト ちょうふどっとこむ

※ご注意※

書籍の画像につきましては、便宜上「アマゾン」のサイトのものを使用しております。

ご希望の書籍がございましたら、図書館をご利用いただくか、調布市内の書店をご利用ください。(市内書店の検索は「ちょうふどっとこむ」からどうぞ)

一般書一覧

「父の旅 私の旅」

藤原正彦著

藤原正彦は作家新田次郎と藤原ていを両親に持つ数学者でエッセイストである。
この本は,新田次郎の最後の作品「弧愁 サウダーデ」の取材先であったポルトガルを,息子の藤原正彦が父の足跡を辿って旅した紀行文である。

海軍軍人であり作家であり神戸駐在ポルトガル副領事であったポルトガルの人モラエスは,徳島出身のヨネと結婚してから75歳で没するまで,故郷への深い想いに身を焦がしながらも心から愛した日本で生き続けた。
この孤高の人モラエスの想いに惚れ込んだ新田次郎が,最後に書いた作品「弧愁 サウダーデ」の取材に,モラエスを育てた国の自然・人・風土を自分の目で確かめるためにポルトガルを訪れた。そしてまた,その息子藤原正彦が父の取材ノートを携えて同じルートを辿りながら一人でかの地を旅行したのである。

モラエスの生家を訪れ,彼の望郷の想いを自分のものとしてやってきた父,そして父の想いを自分の想いとして作者が立つ。
望郷・懐かしさ・会いたいが会えないもどかしさ,これがポルトガルの「サウダーデ」である。父の想い・魂が自分に乗り移ったような気がして,モラエスの「サウダーデ」を追求することが父の「弧愁」の執筆の動機だったのだと確信した。

何の前触れもなく突然に訪れた父新田次郎の死を,現実のものとして受け入れることが出来なかった作者にとってはこの旅は大切なことであった。

 「ポルトガルの同じ空気を吸い,同じ人々と話し,同じレストランで同じ料理を食べ,同じ酒に酔い,父の想い出に溺れるほど浸りたかった。そうすることであっけなく私の視界から去ってしまった父にもう一度会えるような気がした。」と作者は述べている。

宮の下読書会    中川輝江


■ 「父の旅 私の旅」を図書館で探す ■

「犬が星見た」 

武田百合子著 中央公論新社

 「星など見えはしないのかもしれないが・・・頭をかしげ、ふしぎそうに星空を見上げて動かない」犬が自分であった、と作者は書きます。
 本書の魅力は、作者の親しみやすい個性によるのか、ていねいな描写や、ちりばめられている絶妙な言葉の力によるのか。「鳥たちは広い空間をまるで進まず、はばたいているだけのように見える」そんなロシアの大陸を行く、すばらしい旅行記です。人間観察も痛快です。「その日食べたものを列挙するだけでもいい」と、そもそも作者に書くことをすすめてくれた夫の武田泰淳さんに感謝。この作品のなかでも、「富士日記」など他の作品のなかでも、食べ物というものの、読んでいてなんと楽しいこと!食べっぷり飲みっぷりの、なんと感動的なこと!
 当会の会員は、アカデミー愛とぴあの一サークルである「随想を書く会」のメンバーが大半です。作品の内容ばかりでなく、書き方についても話しあうことがあります。たとえばこの作品の場合、紀行文ってこんな風に書けばおもしろうのか、こんな風になら書けるかもしれない?・・・なんてことば、絶対に無理なのでした。これはもう、百合子さんの目を通してこそ成立した世界なのですから。

名作読書会 海本みどり

■ 「犬が星見た」を図書館で探す ■ 

もの食う女

武田泰淳 著

主人公の「私」、それに弓子と房子・・・この三人からなる話である。

弓子は知的な女性で新聞社に勤めている。一方房子は神田の喫茶店で昼の十二時頃から夜の十時まで立ち働いている。

この二人の女性の間で「私」の心は揺れ動く。弓子は男をひきつける顔立ちで、「私」は彼女にほれこんでいる。が、彼女は何かと忙しく、そう頻繁に会えるわけではない。弓子のおかげでいらだった神経も、房子と会って食事を共にすることで「私」は疲れを癒し深い安らぎを得ることができる。

弓子は、いつも「食欲がないのよ」と口にする。実際食べるものによってはジンマシンが出たり腹痛をおこしたりする。それに対して房子のほうは、何もかもじつに嬉しそうに食べる。

<私はビールを飲みながら、房子がたちまち三皿の寿司をたいらげるのを眺めていました。それはムシャムシャという感じではなく、いつのまにかスーッと消えてしまった風でした>

房子の、食べること食べること。豆ヘイ糖とハッカ菓子、アイスクリーム、渦巻パン、とんかつ、アイスキャンディ・・・・・。
そんな房子に「私」は次第に惹かれていく。

この房子という女性、生きることを素直に表出する、なんとも魅力に溢れた女性だが、それもそのはずで、この房子は後の武田泰淳夫人、百合子さんがモデルだといわれている。

栞読書会 青木笙子


■ 「もの食う女」を図書館で探す ■

家守綺譚


梨木香歩 著 新潮社 2004

それはついこのあいだ、ほんの百年少しまえの物語、と帯に書かれて表紙には南天の赤い実が浮かんでいる素敵な装幀の本です。
サルスベリに始まる物語は、花から実まで二十八編で、そのサルスベリの木に惚れられたりするが学士綿貫征四郎という登場人物で、学生時代に亡くなった親友の実家の家守を始めた和風の庭にある樹木なのであります。
この出だしから引き込まれて、こちらまでふんふんとうなずいてしまう話なのです。
掛軸の中からボートで、亡くなった親友が訪れたり、その親友の高堂のことを書けと、原稿を取りに来る山内、居ついた犬の餌を届けがてらたずねてくる隣のおかみさん、和尚さん、河童、白竜、カワウソ、四季おりおりの天地の自然の「気」たちと新米精神労働者の「私」と庭つき池つき電燈つきの二階屋との明治時代、こんなのびやかな人間と生きものとの交歓、さもありなんと思う書物です。

緑ヶ丘読書会 菅谷久枝

■ 「家守綺譚」を図書館で探す ■

李陵


中島 敦 著

舞台は古代中国、前漢の光武帝(140BC~87BC)の時代匈奴に囚われた二人の武官(李陵と蘇武)都の文官(司馬遷)の物語。

◆李陵は五千の兵で匈奴の領地深く攻め込んだが刀折れ矢もつき捕虜になる。彼が胡地に生きているのを知った武帝は妻や子ら一族を抹殺。こうなったのは仕方ない事としても、「自分が故国に尽くした事と故国が己に報いたこと」を考え礼を尽くして迎えてくれた単于([ゼンウ]匈奴の王)に仕える。
「胡地の風俗は野卑でも不合理でもない、漢人の生活だけが美しいのではない、土地には土地の風習があり、それぞれに美しいのだ」と胡地の良さも見出し匈奴の女を妻として一子を設ける。武帝が亡くなり故国からの迎えも断り胡地に没。


◆蘇武は平和使節として匈奴に捕虜交換に行ったが不測の事故で全員拘束され降伏に応じなかった為北辺に放逐された。{飢餓・寒苦・孤独}の中「祖国の冷淡さも己の節義を改めなければならない程のやむを得ない事情ではない。自ら顧みて最後迄運命を笑殺し得たことに満足している」十九年ぶりに迎えられ故国に帰る。


◆司馬遷は李陵の降伏を貶める武帝の側近を嫌い、彼を誉めて武帝の怒りをかい、宮刑に処せられた後も編集中の(史記)一三〇巻を完成、六〇歳で没。

緑ヶ丘読書会 西宮 啓


■ 「李陵」を図書館で探す ■

夢十夜


夏目漱石作

「名作」の人達と識り合ってから二十年近くなるか。みんな年をとった。五、六人はあの世に行ってしまった。残った人たちで楽しく本を読んでいる。

司会役の僕は、今日は十三人か、と出席者の数を算える。終って部屋を出るとき、後姿がひとりくらい増えてることがある。Nさんか。いつ入って来たのかな。久し振りである。そういえば、今日の本はNさん好みだなと思い付く。そして、Nさんが二年前にガンで死んだことも思い出す。どこに座っていたのか。TさんとKさんの間か。

忘年会のときに、花いちもんめ、あなたが欲しいッてNさんが迎えに来てたよ、ってTさんとKさんに教えてやるか。

こんなふうな想像を漱石の「夢十夜」は楽しませてくれる。

街並を風がゆるやかに吹き抜けるように、ごく平凡な生活を送る私達の心の中にも、悲しく怖いミステリーが存在するんだよ。おまえさんが気付けばね、と漱石は教えてくれる。

名作読書会 林 一夫

■ 「夢十夜」を図書館で探す ■

桜の森の満開の下


坂口安吾作

古来から桜の花の下は人々に怖れられていたと、鈴鹿の山の桜の森の怖ろしさを記し、主人公の山賊がその謎を解こうとするものの十数年が経ってしまう。 

 ある日、山賊は絶世の美女を攫ってくる。男は女の命ずるまま、6人の女房たちを殺し、女の希望で京の都に移り住む。女は男の殺してきた人間の生首遊びに熱中するが、男は都の暮らしがたまらなく退屈になり、山に帰ることを決意する。女を背負って桜の森の満開の下にくると、女は口が耳まで割けた鬼になる。男が絞め殺すと元の女だった。

 男が我に返ったとき、その背中には白い花びらが散りつもっていた。
 そこは桜の森のちょうど真ん中あたり、ただひっそりと、そしてひそひそと、花びらは散りつづけている。絶対の「孤独」の中で男は初めて四方をみつめる。無限の虚空、それだけのこと。やがて女の姿は掻き消え、男も消えてゆく。

 「あとに花びらと、冷たい虚空がはりつめているばかりでした。」

 この物語は絵本にもなっている。当初、これは小説ではないと「新潮」の編集長に掲載を拒否されたという。満開の桜の下で酒盛り、カラオケに興じている現代人に、静謐な桜の美しさ、怖ろしさをこの物語から味わってほしい。来春は桜の森の満開の下で、この物語をたった一人で読んでみてください。

染地読書会 萩谷美子

■ 「桜の森の満開の下」を図書館で探す ■

「自分の木」の下で


大江 健三郎  朝日新聞社 (2001/06)

 この作品は、作者が若い人に向けて、良心的に、誠実に語りかけたものである。朴訥な不器用ともいえる語り口のなかに、作者のもつ知性、優しさが滲み出ている。

 作者は、子供の教育の仕事に携わったことはないものの、障害を持って生まれた長男を通して深く経験し、考えることがあったと思われる。若者の未来を、憂いを交えて、それでも希望を失うことなくみつめているように思う。

 老人の入り口にいる私にとっても、参考になることの多い本であった。本当の知性の持つ強さ、豊かさを教えられた気がする。作者が「人生の習慣」とよんでいる習慣の力。「うわさ」に抵抗し、自分の目で確かめ、自分の心で考えることの重要性。少しずつ読書の力を鍛え、広げていく喜び。辞書を友に、一つの外国語を極めていく嬉しさ。どうすればよいかわからない問題に、それを括弧にいれて、時を待つことで対処していく方法。

 いずれも、静かで、力強い知性に対する憧れを呼び覚まし、今からでも遅くないという勇気を与えてくれる。父の遺してくれた英文の小説に挑戦してみようかと思っている。

   染地読書会 藤田裕子

■ 「『自分の木』の下で」を図書館で探す ■

ノーザンライツ


星野道夫著  新潮社 (2000/03)

 ノーザンライツとはオーロラのこと。アラスカの空に輝く北極光のことを原住民の人々はそう呼んでいる。

 一九六〇年代こゝアラスカ極北の地に核実験場化が計画された(プロジェクト・チュリオット)。しかし先住民族の人々にはくわしく知らされていない。

 アラスカに魅了されここに住むアメリカ人女性ジニーとシリア。それに若き生物学者ビル。彼等は先住民族と共にこれを阻止する運動に立ち上がる。

 カナダとの国境沿いの原野に点在するエスキモー、グッチインデアン。彼等は文明を拒否し極北の地にひっそりと今も生きる。その彼等の抱える問題(核実験)がそっくりそのまゝ私達の問題であると云う驚き。カメラマンとしての著者のするどい眼が捉えた現代のおそろしさを痛感。来るべき時代の中で苦悩しながらも何か良い方向を見つけて行こうとする先住民達の姿に心打たれる。

『どんな人間の人生も語るに値するものだ』と云う著者の大自然とそこに生きる人々への暖かいまなざしと心情に深く心動かされる作品である。

 あまりにも早い彼の死が哀しい。

          宮の下読書会  田中智子

■ 「ノーザンライツ」を図書館で探す ■

黒い雨

井伏鱒二著  新潮社 (1989/06)

 この作品は重松という人物を通して、二十年八月六日に広島に投下された原子爆弾による惨状が日記形式によって書かれている。

 終戦の年、私は九歳で、青森県八戸市の海辺の町に住んでいて、戦争の恐ろしさを知らない。ピカドンは恐ろしいとは聞いていたが対岸の火事として今まで過ごしてきた。

 この本を読んで大きな衝撃を受けた。と同時に、戦争とは何かということを改めて考えさせられた。広島を火の海にして大量虐殺を図った原爆というもの。人間が行った行為でこれ以上愚かで悲惨なものはないであろう。

 『黒い雨』を読み、できることならここに書かれていることは小説であってほしい、作り話であってほしいと願った。でも、れっきとした事実なのだ。そのことに目をそむけてはいけない。今だって地球のどこかで毎日のように殺し合いが絶えないのだ。

 この本を読んでから、雨を見ると<黒い雨>を思い出す。

 雨は透明で細く、見えるか見えないものである。ところが、この黒い雨は<万年筆くらいの太さの棒のような>雨なのだ。そして、その雨にあたると、拭っても取れることがない。<皮膚にピッタリと着いているコールタールでもなし、黒ペンキでもなし、得体の知れないものである>。もう二度と、このような<黒い雨>が降ってくることがないように、心から祈らずにはいられない。

月曜読書会 阿部悦子

■ 「黒い雨」を図書館で探す ■

蒼き狼


井上 靖著

新潮社 2006年 660円


成吉思汗の征服と闘争の一生。
 (上帝から命ありて生まれたる蒼き狼ありき、その妻なる惨白(あおじろ)き牡鹿ありき、大いなる湖を渉りてきぬ。モンゴルの伝承)

 一一六二年、黒流江上流の遊牧民の子として生まれた鉄木真(てむじん)は、全蒙古の部族を征服して成吉思汗(じんぎすかん)と名のる。

 西夏、ウィグル、金を征服しカスピ海、ロシヤにも攻め込む。
 敵に対しての徹底した破壊と殲滅行為、男は殺し、又は捕虜として兵に加え、財宝を奪い城郭には火を放って文字通り灰燼にする。

 女は奴婢かモンゴルの子を産ませる為捕虜とする。何故?他部族に略奪された母の胎内に生を享けた事で、蒼き狼の裔であることを自分自身に証明しなければならなかった。遠征中に幕舎で死去。六五歳。

                  緑ヶ丘読書会  西宮 啓


読書会おすすめの一冊。

紹介:アカデミー愛とぴあ

■ 「蒼き狼」を図書館で探す ■

鎌倉のおばさん


村松友視

新潮社 2000年 476円


 この作品は、村松氏のルーツを知る上でも興味深い内容でしたので推薦いたしました。「鎌倉のおばさん」とは、友視氏の祖父である文士、村松梢風の愛人で、終戦後鎌倉に三百坪の邸を購入し、昭和三十六年に梢風がなくなるまで住み、そのあともさらに三十四年その家に一人で暮らし、梢風の未亡人の役を演じぬいた人です。

 梢風という人は、一般的に考えると不思議な神経の持ち主でした、その日常からは妻子と家庭がすっぽりぬけていて、女性のもとを転々とし、また一時期は上海に渡りそこでも愛人をつくり日本へ連れて帰る、という具合です。

 そういう夫、父に対し誰も異議をとなえる者はいなかったのです。梢風が一家のなかでも飛び抜けた存在であったせいでもあるでしょう。

 鎌倉のおばさんは、梢風が自信を持てるように背中を押し、彼女好みの文士に仕立て上げ、鎌倉の家に落ち着かせたのです。

 彼女は“虚言癖”“作話症”があると言われていましたが、おばさんと著者がたまに逢って交わす会話は、掛合い漫才のように弾んでいて楽しそうです。

 終りのほうで著者は書きます。「俺にはフィクションを支えにしなければ心もとない時間の連続だった。梢風が去ったあと、フィクションとたわむれる日常を送らざるを得なかった『鎌倉のおばさん』と同じ病気ってわけか」。そのつぶやきは、おばさんへの愛情が伝わってくる言葉でした。

宮の下読書会 押切 よし子


読書会おすすめの一冊。

紹介:アカデミー愛とぴあ

■ 「鎌倉のおばさん」を図書館で探す ■

秀吉と利休


野上彌生子

新潮社 1992年 544円


 観光案内を見ると「大徳寺の三門(通称は山門)に利休は自分の木像を置いたので、秀吉から罪に問われて切腹を命ぜられたという因縁話はフィクションであり、今でも木像は安置されており歴史上の事実ではない」と書かれている。利休の死はいまでも謎となって、多くの創作や評伝が生れている。

 この物語は堺の豪商人でもあり、茶道の大成者でもある利休が堺の家での朝風呂の穏やかな描写で始まる。平素は京都聚楽第内に住み、茶頭にとどまらず、関白秀吉の政治のことまで相談相手になっている。秀吉にとって利休は、なくてはならない人であり、利休にとっても同じである。政治の場で天下の権力者である秀吉も、茶室で二人だけで向き合うとき、利休に威圧感を持ち、気後れを感じる。ある時、利休は朝鮮征伐の「唐御陣」計画に、「明智討ちのようにはいくまい」と義兄に口をすべらし、秀吉の耳に入り咎められ、秀吉のそのときの気分次第の勘気に触れ、切腹を命じられる。利休の木像は大徳寺の三門から引きおろされ、一条戻り橋のたもとで木像まで処刑された。

 野上彌生子は長編大作「迷路」を完成させた後、七十歳にして哲学を学び、市の哲学を追及し、利休の死を小説に書くべく膨大な資料を取り寄せ、七年の歳月を経て完成させた。

 人の心の二重にも三重にも潜む心の奥底の計り知れない動きを追求した作品でもあり、桃山文化の緻密な描写に作者の情熱を感じる。

             柏読書会           今村富子

読書会おすすめの一冊。

紹介:アカデミー愛とぴあ

■ 「秀吉と利休」を図書館で探す ■

短編集「冬物語」


南木佳士(なぎ けいし) 作

文藝春秋 1997年


 作者は佐久総合病院の医師である。「冬物語」は、患者や土地の人々とのふれ合いを私小説風に綴り、十二の短編が収められている。

 標題の「冬物語」は、医師になって二、三年目ワカサギ釣りに熱中していた頃、釣れると教えられた場所で湖に落ちたところを、園田かよさんに助けられる。かよさんは、脳出血の後遺症で三年前から寝たきりの夫を抱えて、ワカサギ釣りで生計をたてている。夫の安男さんは、たしかに回復の余地はなさそうだが、意識ははっきりとしていて、「いい笑顔をたたえて」いる。その頃の作者は、治療の成否とは無関係に、死すべきものは死んでいく冷酷な現実に、寝付かれない日々を過ごしていた。かよさんを師匠としてワカサギ釣りに熱中するときだけが心が安らぐのだった。二月初旬の朝、かよさんの夫が亡くなる。死亡を確認した作者がみたものは、「不思議になごやかな臨終の光景」だった。

 三百余の死を看取ってパニック障害になった作者の、弱い者、心優しい者への共感ともとれる、人としてのやわらかなあたたかみが作品に充ちていて、静かなぬくみが読む人を包み込むように感じられる。と同時に、これはノンフィクションではない、小説であるなら、事実と虚構は奈辺にあるのだろうかと、探ってみたくなる作品集でもある。
 心萎えたときに読んでみてください。

             宮の下読書会          荻谷 美子

読書会おすすめの一冊。

紹介:アカデミー愛とぴあ

■ 「短編集「冬物語」を図書館で探す ■


佐多稲子 作

學藝書林 1994年


 幾代が、上野駅ホームの駅員詰所の横でしゃがんで泣いている。亡くなったばかりの母親のことを思いながら泣いているのだ。

 幾代が、田舎から出てきて神田小川町の旅館に働きに出たのは一昨年の冬。その幾代に「ハハキトクスグカヘレ」の電報が届く。主人はそれを見て「今から帰ったって富山までじゃ、間に合やしないよ」と言う。追って届いた「ハハシンダ、カヘルカ」の電文にも「あんたが帰ったって、死んだものが生きかえるわけでもないしねえ」と、主人の妻は引き留めようとする。

 幾代は泣きながら身の回りの物と預金通帳を鞄につめて駅に来た。そして、しゃがんで泣き続ける。そんな悲しみの中にいながらも、幾代は出しっぱなしになっている水道に気がつく。そして、水道の蛇口の栓を閉めに行く。

 水を止めることは、それまでの生き方の流れを止めること、幾代が自分の不甲斐なさにくぎりをつける、できればそう思いたい。水を止めたあと、毅然とした態度でホームを歩いていく幾代の背中を見ることができたらと思う。が、その後も幾代は泣くことしかできない。前の場所に戻って泣き続ける。

 泣いている幾代に春の陽があたっている。まるで幾代を包み込むようなその光。その柔らかな光の中で、幾代はやがて立ち上がり、おぼつかない足取りであっても歩き始めるだろう。そんなことを暗示させる結びとなっている。

             多摩川読書会    青木笙子

読書会おすすめの一冊。

紹介:アカデミー愛とぴあ

■ 「白と紫-佐多稲子自選短篇集-」を図書館で探す ■

反骨のジャーナリスト


鎌田 慧 作

岩波書店 2002年


 本書は十人の個性的なジャーナリストの活動に迫ったものである。

 「元始、女性は太陽であった」の有名な言葉を残した平塚らいてうは高級官僚の娘として育ったが、世間の常識に捉われることはなかった。女に教育は無用とされていた一般社会の中で、女だけで作った雑誌「青鞜」を誕生させた。森田草平との情死未遂事件で新聞沙汰になったが、そのスキャンダルにもひるまない玲瓏さを持っていた。若い時代より女性の人間性に目覚め、後輩の女性たちを先導した。与謝野晶子、伊藤野枝、吉屋信子、市川房枝などがあとに続いた。

 桐生悠々は「私は言いたいことを言っているのではない。言わねばならないことを言っているのだ」と、昭和十年代の非常時体制のころ、「関東防空大演習を嗤う」と新聞に堂々と書く。この一文は広く世に知られる。笑うでなく嗤うである。軍部、政府に対する痛烈な批判である。反軍、反戦の論説を張って一生をつらぬいた新聞人であった。

 齋藤茂男は徹底的に弱者の立場に視座を捉え、新聞記事によって人間を書こうと努力した。一記者として生涯をとおした。不敵な洞察の奥に、やさしい視線を失うことはなかったという。

 いずれ劣らぬ反骨のジャーナリストたちの闘いの記録である。ペン一本にこめた信念の熱さ、強さにジャーナリストの原点を見せられた思いで興味深く読んだ。

                               針布読書会       小林美代

読書会おすすめの一冊。

紹介:アカデミー愛とぴあ

■ 「反骨のジャーナリスト」を図書館で探す ■

大根の葉


壺井 栄 作

新日本出版社 1980年


 海辺の村で母親と妹と暮らす健は五歳。二歳になる妹は、先天性白内障で眼が見えない。一日でも早く手術をするようにいわれている。遠く離れた神戸の病院へ行くのだ。その日、健はおばあちゃんの家で待っているように母親に言われるが、いっしょに行くといってきかない。ぐずる健に、母親は辛抱強く、ながい時間をかけて説得する。文中、作者は瀬戸内のうつくしい情景描写も忘れない。

 母親は両手を健の目に当てて目隠しをする。そして、目が見えないということはどういうことかを実体験させる。こどもの想像力を待つのだ。目が見えなくなったら、どんなに不自由で悲しいことかを話すのだ。

 ようやく健は納得し「おかあさん、健泣かんと待っちょるーー」と言う。健は自分でそう決めたのだ。「そこが大事」というAさん。「母親の情感のこもったはなしぶりに感心した。むずかしい理屈はなく、それでいて、きちんと説明している」と、Bさん。本書は親子のあいだのコミュニケーションのとり方などが問題とされている現在、古いようでいて新しい。

                                  月曜読書会   大出きたい


読書会おすすめの一冊。

紹介:アカデミー愛とぴあ

■ 「大根の葉 壺井栄全集 第7巻」を図書館で探す ■

父の詫び状


向田 邦子 作

文藝春秋社 2005年


 父がどんな〈詫び状〉を書いたのか、それが分かり始めるのはかなりたってからで、最初のほうはもっぱら伊勢海老の話だ。

 友人から貰った見事な伊勢海老を、〈どっちみち長くない命だから、しばらく自由に遊ばせ〉ているうちに、七、八年前にやはり伊勢海老を分けてもらった時に同じようなことをして、ピアノの脚に傷をつけてしまったことを思い出す。

 やがて〈父の詫び状〉へと話が進むのだが、じつにさりげなく次の話題へと読者をいざなう。この展開の見事さ、ユーモアにあふれた文章。名エッセイとはこういうものなのだろう。

 保険会社の地方支店長をしていた「私」の父は、宴会の帰りなどに、ほろ酔い機嫌で客を連れて帰ることがあった。ある日、そんな客の一人が玄関で粗相をし、その吐瀉物の始末を「私」がする。それを見ても、父はねぎらいの言葉をかけるわけではない。

 ところが、東京に戻った「私」に父から手紙が届く。そこには「此の度は格別の御働き」と書かれてあった。不器用な父のそれが精いっぱいの感謝の気持ちだったのだろう。

 こういう父親が私たちの世代の父親だった。家長として威張りちらしている手前、優しい言葉など口にできない。が、本心は人一倍子供思いの父親なのだ。

 ここに出てくる父親は、わたしの父の姿と重なり、子供時代のいろんなことを思い出させてくれる。

    栞読書会   青木笙子 

読書会おすすめの一冊。

紹介:アカデミー愛とぴあ

■ 「父の詫び状」を図書館で探す ■

焼跡のイエス


石川淳 作

講談社 2006年 1300円


 昭和二十一年七月の晦日。翌日から市場閉鎖となる上野闇市界隈。

 そこは〈あやしげなトタン板の上にちと目もとの赤くなった鰯をのせてじゅうじゅうと焼く、そのいやな油の、胸のわるくなるにおい〉が漂っている。にぎりめしには蠅がたかり、腹をすかせた人々が行き来し、店の人が客を呼ぶ金切り声が飛び交っている。

 そこへ一人の少年が突如出現する。ボロとデキモノで身を固めた少年。家も親も失った浮浪児なのだろう。

 その少年が、主人公である「わたし」の目にイエスに見える瞬間がある。服部南郭の風雅の跡を訪ねようと闇市から抜け出し、人の行き来が途絶えた所で少年に襲われた時だ。〈わたしがまのあたりに見たものは、少年の顔でもなく、狼の顔でもなく、ただの人間の顔でもない。それはいたましくもヴェロニックに写り出たところの、苦患にみちたナザレのイエスの、生きた顔にほかならなかった〉とある。

 しかし、少年がスリであることも、「わたし」は気づいている。

 この少年は誰なのか。イエスであるとすれば、なぜ上野の闇市に現れたのか。人々を救済するためか。これから先どう生きていったらいいか分からぬ人たちに手を差しのべるためだったのか。

 何も怖いものがなく、何ものにもとらわれず、堂々と自由に市場の真ん中を歩いていく少年。その姿が、律法にとらわれず自由に教えを説いて回ったイエスの姿に重ね合わされたということなのだろうか。

    草の実読書会   青木笙子 

読書会おすすめの一冊。

紹介:アカデミー愛とぴあ

■ 「焼跡のイエス」を図書館で探す ■